山口雅史さん × 社長対談
- 前編
- 後編
- ヨモヤマ話
-
大崎:
いや~ ビックリしましたよ。もちろん、本日いらっしゃることは分かっておりましたが、打ち合わせもなく、いきなり収録が始まっているとは驚きましたよ!山口:
父が出演していたモーニングショーの人気コーナー「宮尾すすむのああ日本の社長」のように、となると、あの番組は、社長の生のリアクションが売りだったわけですから、基本的には事前に打ち合わせはしないんですよ。
大崎:
なるほど、そうだったんですね。山口:
私もいろいろレポーターをやってきましたが、親子で社長をお尋ねするというは、私初めてなんです。とても楽しみにしてまいりました。大崎:
それは嬉しいなぁ。お父様の宮尾すすむさんには、あの番組以降もとても親しくさせていただいて、私の結婚式の時にも心温まるご祝辞を頂いたんですよ。本当は司会をお願いしたのですが、仙台で開かれた運動会のお仕事が入っていらしたそうで、その夢は叶いませんでした。山口:
当時、私はまだ小学生でしたから、御社が取り上げられた時の様子を生では観た記憶がないんですよ。でも、二世同士、僕にしかお伺いできない事がたくさんあるんです。大崎:
なんでも聞いてください。山口:
では、社長!実は今、一階のお店に行ったんですが、明かりはついているのにどなたもいらっしゃらなかったんですよ。あれはお店としてはまずいんじゃ…。大崎:
実はあのお店はVIP専用なんです。予約をなさったお客様が、ゆっくりと靴をご覧いただけるようになっているんです。芸能界の方とか、政界や球界でご活躍中の方の奥様やご令嬢様にもご愛顧頂いているので、周りの目を気にすることなく寛げるお店が必要だと思いまして。山口:
それは、大崎潔社長の代になってからということですか?大崎:
父が築いた本店は、明治通り沿いのラフォーレの近くにあったのですが、2012年にこちらに引っ越しまして、住宅街の中と言う立地などもあるのでVIP 感を味わっていただこうということで、私が社長になってこのようなお店にしていったんです。山口:
先代の社長や私の父が活躍した昭和の時代には「VIP 感」というのは、あまり無かったですもんね。では、私も次回はVIPに扱われる芸能人になってから買い物に来ます!(笑)大崎:
まあ、そんなことおっしゃらず、おかけください。山口:
ここは社長室ですよね?普通、社長室といったら真面目な雑誌や書籍ばかりがならんでいるわけですけれど、何ですかこちらは? 漫画があって、よいこがあって、懐かしい山口百恵さんのプロマイドがあって、レコードがあって、サイン帳があって。。。大崎:
後で、詳しくご説明いたしますが、平成の世の中に、昭和を甦らせようという企画をfacebook中心にやっているんです。 これまで個人的に昭和に関する物を色々と収集してきたんですけれど、これをうずもらせてはいけないなということで「待夢摩神(タイムマシン)」という名前で、面白おかしく平成の世に紹介しているんです。山口:
だから、昭和の懐かしいグッズがこうして並んでいるんですか。大崎:
お父様の「ああ日本の社長」も懐かしい昭和の番組じゃないですか。だから、是非とも待夢摩神に取り上げたかったんですよ。山口:
ありがとうございます。私も、先代の大崎優明社長が出演なさった番組などを見て予習をしてきたのですが、お父様にそっくりでいらっしゃいますね。お顔もそうですけれど、雰囲気も本当に似ていらっしゃる。あの特徴あるサングラスはかけられないのですか。大崎:
さすがに あれは、かけないですねぇ(笑)社長対談ということで、私が色々とお聞きしようと思っていたのですが、流石プロですね。 聴くのが上手いのでついつい喋ってしまいますよ。 分かりました、今回は指向を変えて、先ずは山口様に私へのインタビューをしていただいちゃいましょう。 この後、お食事の場も用意していますから、私がお聞きしたいことはそちらでお伺いすることにいたしましょう。
※「待夢摩神」にはこちらに掲載しきれなかったこぼれ話が沢山でています。併せてご覧ください。
-
大崎社長は、幼少のころからお父様の会社を継ぐつもりでいらしたのですか?大崎:
いえいえ、小さな頃は父が何をしているのかさえよく分かりませんでした。昼ぐらいに起きて何かを削っている。今考えたらあれは靴の木型だったのでしょうね。それに、父も「いきなり会社を継がせたりはしない」と公言していましたから、私は小学校の教師になることを夢見て大学も教育学科を選びました。山口:
では、一旦先生になられてから会社を継がれたということですか。大崎:
ところが違うんです。いよいよ大学を卒業するという頃になって、父から流通関係に進むように進言があった。私としては、何のためにこの学科を選んだのかと言う気持ちも強かったので、ずいぶんと葛藤はありましたが最終的には教職は諦めて、とあるデパートへと就職することになったんです。山口:
お父様のおっしゃる『いきなり継がせない』というのは、そういうことだったのですね。大崎:
まあ、人とお話しすることは大好きだったので接客のお仕事も遣り甲斐はありました。「社会人っていうのは面白いんだなぁ」と感じたのはこの頃です。山口:
配属先は、婦人靴の担当だったのですか?
いえいえ、初仕事は『有料の紙袋の販売の係り』ですよ(笑)。地下の段ボールの整理なんていうのもしましたね。ハンドバックやお財布の売り場。英語を使っての海外の方への対応なんていうのもありました。デパートの一兵卒として働いた、この頃は学ぶことは多かったです。山口:
どれぐらいデパートには、いらしたんですか?大崎:
5年4か月です。本当は辞めたくなかったんですけれど、私が28歳の時に、父が大阪での事業を拡大するということで「そろそろ潔を呼ぼう」ということになった。山口:
お父様に先見の明があったんですね。デパートでの働きぶりなどから『商売に向いている』と感じられたのではないでしょうか。大崎:
どうなんでしょうね。ただ、学生の頃は、父と一緒に仕事というのは全く考えなかったですけどねぇ。山口:
さて、お父様が社長。幼少のころからの知り合いの方が上司だったりしたわけですよね。やりにくくなかったですか。大崎:
入社直後に幹部の人が集まるところで自己紹介をしたのですが、もの凄く緊張しましたよ。その時に出された食事は全く味がしないぐらい、これまで味わったことのないような緊張でしたね。
「不束者ではございますが宜しくお願いします」という結びの挨拶の後、大きな拍手が起きたのは覚えていますが、本当に霧のかかったような情景でした。山口:
実際に会社の中に入られてみてお父様は、どんな社長様だったのですか?大崎:
子供の頃には、仕事に関しては何も言わなかったです。『やさしくて、気前のいいお父さん』という感じでした。ところが、社長としては威厳がありましたね。父が右と言ったら右、左と言ったら左でしたから。山口:
カリスマ的な力強いリーダーシップで、ここまで会社を大きくなさった方ですからね。そのお父様から会社を引き継ぐのは大変だったのではないですか?大崎:
課長代理からスタートし、人事、総務、そして専務時代が長かったこともあって、実務は一通り経験していましたから、意外とそういう面での大変さは無かったですね。父も自分の子供に継がせるわけですから、何かあったらいつでも言えるぐらいの気持ちだったのでしょう。山口:
社長になられてから数年が経過なさったわけですが、この間に『大崎潔カラー』をだされたことはありますか?大崎:
細かな部分ではありますが、大きくカラーを打ち出しているとは思っていません。現状をキープしながらもプラスオンで何かやれることがあったらやろうとは思っています。
ずばり、二代目の社長として大事な事とは何でしょう。大崎:
マインドの問題よりも、お金の管理だと思います。同じように会社を継いで、上手くいかなくなった例も知っていますが、その多くは、会社のお金をプライベートなものに流用したりしているうちに信用が無くなっていったのが原因でした。父からも、お金の使い方に関してはずいぶん学びましたね。
山口:
例えば、会社の経営で悩んだ時に、お父様だったらどうするだろうと考えることはありますか。大崎:
父は会長ですから、本当に悩んだら聴ける状況にはありますし、父の遣り方は見てきていますから、全く考えないかと言うと嘘になりますが、先ずは自分で考えて決断をしています。というのも、父が現役の社長だった頃とは時代が大きく変わっていますから、同じことをやっても上手くいかないですし、会社を立ち上げた人物とそれを引き継いだ私では、聴く側の受け止め方も違う。
ただし、後からふと振り返った時に『オヤジとそっくりだったかな』と思うことはありますよ(笑)
山口:
そんな大崎潔社長をご覧になって、副会長であるお母様はどんな風に思っていらっしゃるのでしょうね大崎:
『マダマダだ』と思っているでしょうねぇ。今でも、細かな所で怒られています。自分の予測では、代替わりをしたらもの凄く喜んでくれて、『息子が継いでくれた』などと自慢をするのかと思っていたのですが違いましたねぇ(笑)
そろそろ私からも山口さんにお話をお伺いしたいのですが、それは場所を変えて食事でもしながらにしましょう。
-
それでは、攻守交代ということで私の方から質問をさせてください。お父様は、舞台やテレビの司会、「スターどっきり㊙報告」「ああ日本の社長」などのレポーター、クイズ番組のパネラー、大河ドラマや遠山の金さんでの俳優など、本当に色々な事をなさいましたよね。マルチタレントの走りですよね。
山口:
やっていないのは歌ぐらいじゃないですかね。ただ、本人も歌いたいとは思わなかった。というか苦手意識があったんですよ。カラオケとかはやらない人でしたから。今の人は、子供の頃から歌える環境が整っていますから上手ですよね。父が若かった頃は、カラオケと言えばエイトトラックの大型のカセットの時代。家族でカラオケなんて考えられませんでした。それに父の場合、どなたかがカラオケを歌う場合には司会をしてたんじゃないですかね(笑)大崎:
著書を拝見しましたが、宮尾先生の人生は本当にドラマチックだったんですね。旧満州でお生まれになって、鹿児島に引き上げられ、そちらで事業をなさっていた。山口:
鹿児島県の川内市(現・薩摩川内市)で紳士服の店をしていました。当時では珍しい月賦販売をしたりしていたのですが倒産してしまい、30歳の時、それで東京に出てきたんです。最初は池袋の西武百貨店に就職が決まっていたんですよ。もし、そのまま百貨店に就職していたら大崎社長のいいライバルだったかもしれませんね。大崎:
百貨店ですか。その後に、漫談家の宮尾たか志さんに師事されたそうですが、何故、話芸の道をこころざされたのですか。山口:
鹿児島で紳士服店を数店舗経営していて、いろいろ経営者なりの苦労があったみたいで、師匠の新聞記事を見て、「この仕事は、在庫を持たなくていい、店舗を持たなくていい、手形も回ってこない、背広一つあれば商売になる!」というので、その道を目指したみたいです。弟子になりたいと言っても、新弟子になるのって大体年齢は10代の人ばかり。父はすでに30歳でしたからね。当然、宮尾たか志師匠に初めてお会いした時には、「田舎に帰れ」と言われたそうですよ。ただ、その当時、宮尾たか志一門には、運転免許を持っている弟子がいなかったそうなんです。父は鹿児島時代に車も持っていたぐらいでしたから、運転はお手の物。運転免許をもっていたことが幸いして、最初は師匠の車の運転手兼内弟子になったんです。大崎:
最初は、運転手もされていたんですか?山口:
本当に、人生は何が幸いするかわからないですね。それに、自分で商売をやっていたからこそ、経営者の気持ちがよく分かるらしいです。だから「宮尾すすむの日本の社長」がモーニングショーの人気のコーナーになったんでしょうね。大崎:
こんなにたくさんの素材を撮るのかと思いましたね。納得がいかないと「社長、もう一回今のシーン宜しいですか?」と何度も撮り直しをしていました。そこまでこだわって作った番組だからこそ、人気があったんでしょう。かなりの視聴率だったのではないですか?山口:
朝のワイドショーの1コーナーだったのにもかかわらず、あのコーナーだけ15%ぐらいあったみたいですね。反響もかなりあったみたいですよ。この番組に出演されて、業績が伸びた会社さんもたくさんありましたし、出演された社長さんはこの番組に出られるようになることを目標にしていたなんてお話を頂いたこともありました。大崎:
私の父が出たのは、番組初期の方だったのですけれど、仕事がのってきていた時なので忙しいことを理由に何度か断っていたみたいだったですよ。ファッション業界ゆえに芸能界にパイプがありまし、さらにアパートの大家もしていてそこに大物俳優が住んでいたこともあって交友関係もあったので、最後は断りきれずに受けたみたいです。その後もタイムショックに出たりなど、画面に登場すること自体が嫌いなわけではなかったので、きっとそういうお話が持ち込まれたのでしょうね。
宮尾すすむさんがいらして『社長、社長』と言われると気分が良くなって、ついつい自分のことを話したくなる。他の方では真似ができませんよね。
ところで、お家ではどんな方だったのですか?
山口:
うちに帰れば、普通の父親でしたよ。テレビとはイメージが違うかもしれませんが、亭主関白で真面目。でも、母の事と家族が大好きな父親でしたよ。とても厳しいけど、明るく優しい父でした。大崎:
そこは私の父と似ていますね。それにしても宮尾すすむさんのお心遣いは半端じゃなかった。撮影の後、別の仕事をしてからまた打ち上げのお寿司屋さんに戻ってきてくれたらしいんですよ。『宮尾すすむ、只今戻りました』って。
私の結婚式の時の宮尾さんからの祝電。
『パチンコは一人でやるもの、麻雀は四人でやるもの、子供は二人で作るもの、明るくかわいい赤ちゃんを作ってください』って文面でした。
宮尾さんは、当日、仙台でのお仕事が入っているということでご出席頂けなかったですが、僕の結婚式の事を気にかけてくださったんでしょうね。
山口:
それだけ、親交が深かったということですね。大崎:
本当ですか! それは嬉しいなぁ
今回のこの対談も104で連絡先の電話番号を調べ始めたところから、何だか導かれるように話が進みましたし、父や母に、息子さんにお会いすることを伝えると懐かしそうな顔で喜んでくれました。本当に深いご縁を感じますね。山口さんは、お父様と同じ業界にいきなり入られたんですよね。大変ではなかったですか?
山口:
一般の企業の二代目とは感覚が違うかもしれませんが、後悔はないですね。父と同じ世界にいることで色々と学びました。
親子で同じ仕事をできるっていうのはすごく幸せでした。目の前に最大の味方であり、最高のお手本がいるんですもんね。今になってみると僕が父にできた唯一の親孝行が、父と同じ仕事をして、いろいろ教えてもらって過ごした時間だったかもしれませんね。大崎:
今回の〆はどうしてもお寿司屋さんでやりたかったんですよ。できれば、父と宮尾すすむさんが行ったお店に行きたかったんですが残念ながらそこは無くなってしまったので、私が多くの方と出会ったこのお店を選びました。対談はこれぐらいにして、後はオフレコでゆっくりと飲みたいのですが、結びに何か伝えたいことはありますか?
先ほど、大崎社長もおっしゃっていましたが縁とともに、タイミングって大事だなって思うんです。それとちょっとした勇気。子供の頃、家族でイルカのショーを観に行った時に、トレーナーが『イルカに触ってみたい人は手を挙げて!』みたいなことを言ったんですね。でも、僕は恥ずかしがり屋だから手を挙げられない。その時、父が僕の背中を蹴飛ばしましてね。その勢いで手を挙げました。結果的に父に背中を押されて真っ先に手をあげたら選ばれて触ることができました。その後に、たくさんの子供が『私も私も』ということになったのですが断られたんです。
『何事もタイミングが大事』というのを感じましたし、『やりたい』っていう事が大事なんだと教わりました。
『場は、与えられるものではなく掴むもの』
今回お声掛けを頂き、こうして対談をさせていただく中で、父・宮尾すすむから学んだことを改めて思い出しました。本当にありがとうございました。
大崎:
こちらこそ、お忙しい中お時間を作って頂きありがとうございました。
勇気を振り絞って104して良かったです(笑)
では、対談はここまで! あとは、ゆっくり飲みましょう!!山口:
これからは、インターネットも使ってくださいね(苦笑)