横田忠義さん × 社長対談
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mc:
神宮前WEB チャンネル。第二回のゲストはミュンヘンオリンピック・男子バレーボールの金メダリストで、全日本の女子の監督も務められた横田忠義(よこた ただよし)さんです。本日は旭川の横田さんのご自宅にお邪魔をしております。これから3 回にわたり、お話を伺わせていただこうと思います。「会社の経営者」と「金メダリスト」というのが、私には直接のつながりが見えないのですが、先ずは、大崎社長からお二人の出会いについてご紹介をいただけますか?
大崎:
本当の意味での横田監督との最初の出会いというのは、子供の頃に観た昭和47年のミュンヘンオリンピックの時。一方的ではありますけれど、ブラウン管では大ヒーローでした。「9番のユニフォームをつけてクロスうち」のイメージがある。クロスを打たせたら世界一だったんですよ。準決勝ぐらいから「どうなるんだろう? 絶対金を獲る、金以外はあり得ない」と思っていたら本当に金を獲った。歴代100人以上の金メダリストがいいますが、松平一家と言われた憧れのミュンヘンの金メダリストでした。そんな横田監督が20年前に目の前に現れたんです。
対談番組の打ち合わせのためにお寿司屋さんにいらっしゃったのですが、そこが私の行きつけのお店だったんです。たまたま隣に座らせていただいたのですが、さすがに話しかけるのは失礼かと思いドキドキしながらいたら、店主が気を利かせて「こちら大崎さんです」と紹介をしてくださった。その時に、思い切ってこういう質問をさせていただいたんです。
「1~12という背番号ですけど、あれって年齢順という噂がありますが、これってそうなんですか?」って、そうしたら「それは違うよ」っていう所から本当に話が盛り上がり最高のひと時でした。その後に当時プロ野球の解説をなさっていた広岡さんがいらしたんですけれど、名刺交換を済ませたらまた私とお話をしてくださったほどです。これが切っ掛けとなり、何度かご一緒させていただくことになり、時には肩を組んでお酒を酌み交わすほどになりました。
当時独身だった私の結婚式に参列してくださったり、逆に私もお嬢様の結婚式にお招きいただいたりしながら、家族ぐるみでお付き合いをさせていただいています。mc:
それほど親しくないと、こうしてご自宅にお招きいただいてのインタビューは実現しませんよね。大崎:
全日本の女子の監督をなさっている時にも、試合の合間を縫って「大崎さん、飲みに行こうか」と誘っていただいたこともありました。全日本の監督をなさったというのもありますが、私にとって色々なことを教えてくださった人生の監督でもあるので、横田監督としか呼べないんです。私にとっては、スーパーヒーローです。
mc:
横田さんは、最初の出会いのことを覚えていらっしゃいますか?横田:
もちろん、覚えていますよ。「色々な事を、良く知っとるなぁ」と思った。大崎:
ありがとうございます。スポーツをやっていらっしゃる方って、ご自身の記録をあまり覚えていらっしゃらない方も多いと思うのですが、横田監督の場合は本当に記憶力と頭の良さは抜群なんです。情報量も凄くて、いつも新鮮です。mc:
団体の球技で、男子のオリンピックの金メダルとなると、正式種目ではバレーボールだけらしいですね。大崎:
他の色のメダルならば、メキシコ大会のサッカーの銅とかありましたし、公開競技ならばロスアンジェルス大会の野球の金がありましたが、正式種目となると、金メダルは後にも先にもミュンヘンの男子バレーだけです。ところで、監督。ミュンヘンの時の松平さんの練習は厳しくて、大古さんの当時のインタビューを聞いていると「気づいたら救急車の前だった」ということを語っていらしたことがありましたが、実際どうだったんですか?
横田:
きついのはきつかったけれど、我々には明確な目標があったからねぇ東京オリンピックが終わって、松平さんが自分で手を挙げて監督になって、メキシコで優勝するつもりだったので、そのためにはどういうチーム作りをしたらよいかということだけど、猫田さんがトスを上げてそれをクイックで打てるのは当時のメンバーでは南さんしかいない。この二人を中心にメンバーを集めて育てていこうということやった。
2年後の世界選手権までは、オリンピックメンバーに木村ケンさん、小泉さん、古川さん、森田の4人が入って戦っているんだけど5位になり、ガラッとメンバーを入れ替えることになった。東京オリンピックの当時、俺や、まだ全国的には名前が売れていなかった大古が高校2年、佐藤が高校1年でいたんやけど、それぞれが大学生になっていた。中央大学からは、俺や三森さん、白神さんが入ったりした。当時は中央大学がダントツに強かった。それは自主自立の練習をしていたから。自分が納得すればどんなきつい練習でもするわけさ。松平さんからすれば、きちんと説明しさえすればついてくる中央の選手を主流にした方がチームを作りやすいと思ったんやろうな。バレーも最先端のことをやっていたからね。
大崎:
たしか、5連覇していましたよね。横田:
していた。大崎:
松平さんが凄いのは、各自の実力を把握し「中央大学からはこいつとこいつを入れる」というのを実行したところ。今では考えられないですね。横田:
メキシコオリンピックは、俺が大学3年生の時。全日本に中央からは6名が入り、そのうちレギュラーが3人いたからね。大崎:
同じ大学から、日の丸のユニフォームが6人とは凄いですね。当時の中央がどれだけ強かったか。その時の松下電器とか専売広島とかと戦っても負けなかったんじゃないですか。横田:
春先から6月~7月にあるNHK杯までは、実業団の方が強いわけさ。でも、中央は一年間練習を自分たちでやり、監督なんて、練習を年に2回ぐらいから見に来ない。年間計画、月間計画を自分達で立てて、監督に報告し練習をする。春のリーグ戦は上級生が中心で、7月ごろの関東インカレは上級生を外して下級生を入れる。秋のリーグ戦はほぼ天皇杯を見据えたメンバーにして実践を戦い、9月の段階では優勝を狙えるメンバーを作っておく。「優勝するにはこのメンバーでやります」と自分たちで考えてたことを監督に伝える。そうしないと来年につながらない。「一回だけ優勝すればいい」というのではないんだからね。
大崎:
その延長戦がオリンピックの金メダルという目標になってくるんですか?横田:
オリンピックとなると4年に一回だから、3年後、4年後の優勝を目指したチーム作りをすれば良いんだけれど、途中の世界選手権で成績が悪ければ「ご苦労さん」ということになるから、そちらの方が難しいんだわ。大崎:
なるほど、毎年優勝することよりも、4年に一度のオリンピックの連覇の方がよっぽど難しいですもんね。横田:
松平さんが講演で「天の利、地の利、人の輪」という言葉をつかうんだけど天の利というのは、オリンピックの年ににちょうど脂の乗り切った選手が何人いるかということなんだ。
メキシコオリンピックの時には、森田も俺も大古もちょうど21歳で、元気は良いんだけどキャリアがない。
世界一になるための大事な要素の中に、体格・体力、戦略・戦法とキャリアということをいうわけさ。猫田さんも25歳、セッターとしてはまだキャリアが浅い。チェコ戦なんかで、1セット、2セット、3点、4点ととっていながら、セッターがムッシューからゴリアに替わったら「何かやってくるだろう」ということは分かるんだけど、何をやるのかが分からない。そういう所は、キャリアをつめば「もしかしたら、こうかもしれない。これかもしれない、これかもしれない」と3つぐらい想定できるわけ。大崎:
三択ということですか?横田:
三択ではなくて、「一番はこれかな」「そうでなかったらこれかな」という優先順位が分かる。大崎:
なるほど。横田:
当時の猫田さんも俺らもそれがまだ分からなくて、初っ端にパスアタックをされた途端に頭が真っ白になって逆転されて負けてしまった。それが天の時というか、ミュンヘンの時には俺たちは25歳になっていた。猫田さんも29歳になっていた。
森田にしても、大古にしても、俺にしても19歳から全日本に入っていているからキャリアが6~7年になっていて、外国に行ってもデカい面をして歩けるわけ。mc:
そうなれば、国際大会の雰囲気に飲まれないですよね。横田:
その通り。mc:
現在は、女子のバレーと人気を二分するほど男子バレーも注目を浴びていますが、東京オリンピックの頃は「東洋の魔女」といわれるぐらい、女子バレーの方が脚光を浴びていましたよね。それが、ミュンヘンの時には、日本中が男子バレーのプレイに熱中するほどになっていた。そこには、どんなドラマがあったのですか?横田:
バレーに詳しい人は知っていることなんだが、東京オリンピックの祝勝会の時に男子バレーのメンバーにとって屈辱的ともいえることがあったのさ。そのことがあったから松平さんも自分で手を挙げて全日本の監督になる決意をした。
そこら辺のことは、場所を変えてお酒でも飲みながらお話をしましょうか。大崎:
是非、聞かせてください。2012 年1 月12 日公開予定