BUTIQUE OSAKI

横田忠義さん × 社長対談

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  • mc:
    神宮前WEB チャンネル。第二回のゲストはミュンヘンオリンピック・男子バレーボールの金メダリストで、全日本の女子の監督も務められた横田忠義(よこた ただよし)さんです。本日は旭川の横田さんのご自宅にお邪魔をしております。これから3 回にわたり、お話を伺わせていただこうと思います。

    「会社の経営者」と「金メダリスト」というのが、私には直接のつながりが見えないのですが、先ずは、大崎社長からお二人の出会いについてご紹介をいただけますか?

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    大崎:
    本当の意味での横田監督との最初の出会いというのは、子供の頃に観た昭和47年のミュンヘンオリンピックの時。一方的ではありますけれど、ブラウン管では大ヒーローでした。「9番のユニフォームをつけてクロスうち」のイメージがある。クロスを打たせたら世界一だったんですよ。準決勝ぐらいから「どうなるんだろう? 絶対金を獲る、金以外はあり得ない」と思っていたら本当に金を獲った。歴代100人以上の金メダリストがいいますが、松平一家と言われた憧れのミュンヘンの金メダリストでした。

    そんな横田監督が20年前に目の前に現れたんです。
    対談番組の打ち合わせのためにお寿司屋さんにいらっしゃったのですが、そこが私の行きつけのお店だったんです。たまたま隣に座らせていただいたのですが、さすがに話しかけるのは失礼かと思いドキドキしながらいたら、店主が気を利かせて「こちら大崎さんです」と紹介をしてくださった。

    その時に、思い切ってこういう質問をさせていただいたんです。
    「1~12という背番号ですけど、あれって年齢順という噂がありますが、これってそうなんですか?」って、そうしたら「それは違うよ」っていう所から本当に話が盛り上がり最高のひと時でした。その後に当時プロ野球の解説をなさっていた広岡さんがいらしたんですけれど、名刺交換を済ませたらまた私とお話をしてくださったほどです。

    これが切っ掛けとなり、何度かご一緒させていただくことになり、時には肩を組んでお酒を酌み交わすほどになりました。
    当時独身だった私の結婚式に参列してくださったり、逆に私もお嬢様の結婚式にお招きいただいたりしながら、家族ぐるみでお付き合いをさせていただいています。

    mc:
    それほど親しくないと、こうしてご自宅にお招きいただいてのインタビューは実現しませんよね。

    大崎:
    全日本の女子の監督をなさっている時にも、試合の合間を縫って「大崎さん、飲みに行こうか」と誘っていただいたこともありました。

    全日本の監督をなさったというのもありますが、私にとって色々なことを教えてくださった人生の監督でもあるので、横田監督としか呼べないんです。私にとっては、スーパーヒーローです。

    mc:
    横田さんは、最初の出会いのことを覚えていらっしゃいますか?

    横田:
    もちろん、覚えていますよ。「色々な事を、良く知っとるなぁ」と思った。

    大崎:
    ありがとうございます。スポーツをやっていらっしゃる方って、ご自身の記録をあまり覚えていらっしゃらない方も多いと思うのですが、横田監督の場合は本当に記憶力と頭の良さは抜群なんです。情報量も凄くて、いつも新鮮です。

    mc:
    団体の球技で、男子のオリンピックの金メダルとなると、正式種目ではバレーボールだけらしいですね。

    大崎:
    他の色のメダルならば、メキシコ大会のサッカーの銅とかありましたし、公開競技ならばロスアンジェルス大会の野球の金がありましたが、正式種目となると、金メダルは後にも先にもミュンヘンの男子バレーだけです。

    ところで、監督。ミュンヘンの時の松平さんの練習は厳しくて、大古さんの当時のインタビューを聞いていると「気づいたら救急車の前だった」ということを語っていらしたことがありましたが、実際どうだったんですか?

    横田:
    きついのはきつかったけれど、我々には明確な目標があったからねぇ

    東京オリンピックが終わって、松平さんが自分で手を挙げて監督になって、メキシコで優勝するつもりだったので、そのためにはどういうチーム作りをしたらよいかということだけど、猫田さんがトスを上げてそれをクイックで打てるのは当時のメンバーでは南さんしかいない。この二人を中心にメンバーを集めて育てていこうということやった。

    2年後の世界選手権までは、オリンピックメンバーに木村ケンさん、小泉さん、古川さん、森田の4人が入って戦っているんだけど5位になり、ガラッとメンバーを入れ替えることになった。東京オリンピックの当時、俺や、まだ全国的には名前が売れていなかった大古が高校2年、佐藤が高校1年でいたんやけど、それぞれが大学生になっていた。中央大学からは、俺や三森さん、白神さんが入ったりした。当時は中央大学がダントツに強かった。それは自主自立の練習をしていたから。自分が納得すればどんなきつい練習でもするわけさ。松平さんからすれば、きちんと説明しさえすればついてくる中央の選手を主流にした方がチームを作りやすいと思ったんやろうな。バレーも最先端のことをやっていたからね。

    大崎:
    たしか、5連覇していましたよね。

    横田:
    していた。

    大崎:
    松平さんが凄いのは、各自の実力を把握し「中央大学からはこいつとこいつを入れる」というのを実行したところ。今では考えられないですね。

    横田:
    メキシコオリンピックは、俺が大学3年生の時。全日本に中央からは6名が入り、そのうちレギュラーが3人いたからね。

    大崎:
    同じ大学から、日の丸のユニフォームが6人とは凄いですね。当時の中央がどれだけ強かったか。その時の松下電器とか専売広島とかと戦っても負けなかったんじゃないですか。

    横田:
    春先から6月~7月にあるNHK杯までは、実業団の方が強いわけさ。でも、中央は一年間練習を自分たちでやり、監督なんて、練習を年に2回ぐらいから見に来ない。年間計画、月間計画を自分達で立てて、監督に報告し練習をする。

    春のリーグ戦は上級生が中心で、7月ごろの関東インカレは上級生を外して下級生を入れる。秋のリーグ戦はほぼ天皇杯を見据えたメンバーにして実践を戦い、9月の段階では優勝を狙えるメンバーを作っておく。「優勝するにはこのメンバーでやります」と自分たちで考えてたことを監督に伝える。そうしないと来年につながらない。「一回だけ優勝すればいい」というのではないんだからね。

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    大崎:
    その延長戦がオリンピックの金メダルという目標になってくるんですか?

    横田:
    オリンピックとなると4年に一回だから、3年後、4年後の優勝を目指したチーム作りをすれば良いんだけれど、途中の世界選手権で成績が悪ければ「ご苦労さん」ということになるから、そちらの方が難しいんだわ。

    大崎:
    なるほど、毎年優勝することよりも、4年に一度のオリンピックの連覇の方がよっぽど難しいですもんね。

    横田:
    松平さんが講演で「天の利、地の利、人の輪」という言葉をつかうんだけど天の利というのは、オリンピックの年ににちょうど脂の乗り切った選手が何人いるかということなんだ。
    メキシコオリンピックの時には、森田も俺も大古もちょうど21歳で、元気は良いんだけどキャリアがない。
    世界一になるための大事な要素の中に、体格・体力、戦略・戦法とキャリアということをいうわけさ。猫田さんも25歳、セッターとしてはまだキャリアが浅い。チェコ戦なんかで、1セット、2セット、3点、4点ととっていながら、セッターがムッシューからゴリアに替わったら「何かやってくるだろう」ということは分かるんだけど、何をやるのかが分からない。そういう所は、キャリアをつめば「もしかしたら、こうかもしれない。これかもしれない、これかもしれない」と3つぐらい想定できるわけ。

    大崎:
    三択ということですか?

    横田:
    三択ではなくて、「一番はこれかな」「そうでなかったらこれかな」という優先順位が分かる。

    大崎:
    なるほど。

    横田:
    当時の猫田さんも俺らもそれがまだ分からなくて、初っ端にパスアタックをされた途端に頭が真っ白になって逆転されて負けてしまった。それが天の時というか、ミュンヘンの時には俺たちは25歳になっていた。猫田さんも29歳になっていた。
    森田にしても、大古にしても、俺にしても19歳から全日本に入っていているからキャリアが6~7年になっていて、外国に行ってもデカい面をして歩けるわけ。

    mc:
    そうなれば、国際大会の雰囲気に飲まれないですよね。

    横田:
    その通り。

    mc:
    現在は、女子のバレーと人気を二分するほど男子バレーも注目を浴びていますが、東京オリンピックの頃は「東洋の魔女」といわれるぐらい、女子バレーの方が脚光を浴びていましたよね。それが、ミュンヘンの時には、日本中が男子バレーのプレイに熱中するほどになっていた。そこには、どんなドラマがあったのですか?

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    横田:
    バレーに詳しい人は知っていることなんだが、東京オリンピックの祝勝会の時に男子バレーのメンバーにとって屈辱的ともいえることがあったのさ。そのことがあったから松平さんも自分で手を挙げて全日本の監督になる決意をした。
    そこら辺のことは、場所を変えてお酒でも飲みながらお話をしましょうか。

    大崎:
    是非、聞かせてください。

    2012 年1 月12 日公開予定


    横田 忠義(よこた ただよし)さんプロフィール

    香川県立多度津工業高等学校から中央大学。在学中の19歳で全日本入りした。
    メキシコ五輪で銀、ミュンヘン五輪では金メダルを獲得。強烈なクロス打ちの名手として名をはせ、

    大古誠司、森田淳悟とともにビッグスリーとして活躍した。
    現役引退後は、NECホームエレクトロニクスの監督を経て、1994年に全日本女子監督に就任。

    現在は、北海道・旭川に在住。帯広にて「横田杯」を主催するなど、バレーボールの後進育成のための活動をしている。

  • mc:
    旭川の繁華街まで移動してまいりました。
    神宮前WEB チャンネル。第二回のゲスト横田忠義さんのお話の中編をお送りいたします。

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    横田:
    まぁ、能書きは良いから先ずは乾杯しよう。

    大崎:
    そうですね。

    横田:
    ようこそ、旭川へ。乾杯!

    一同「乾杯!」

    横田:
    (ビールを一口味わったところで)
    ここは、新鮮な北海道の幸を出してくれるから、バレー関係者が来た時なんか、連れてきたりするんだわ。

    大崎:
    そうですか! 元全日本のメンバーもいらしたりしたんですか?

    横田:
    いや、旭川に越してきてまだ一年だから、そういう機会には恵まれていないけれどなぁ。
    あいつらも忙しくて、あらかじめ言ってくれればいいんだが、「明日、北海道にいくんだけど」のように急に連絡してきたりするから、なかなかタイミングが合わんのだわ。

    mc:
    宴席と言えば、前編のインタビューにて「東京オリンピックの祝勝会の時に男子バレーのメンバーにとって屈辱的ともいえることがあった」とおっしゃっていましたが、どんなことだったのですか?

    横田:
    皆さんご存じの通り、東京オリンピックで女子は優勝をして、男子は3位だった。オリンピックの祝勝会をするということになっていたんだけれど、強化委員の役員の手違いでその連絡が通じていなかったんだわ。

    いつまでたっても男子が来ないから「男子は何をしているんだ」と松平さんの所に電話が入った。「祝勝会をやるなんてきいていない」と伝えると「遅れてでもいいからすぐに来い」ということになり駆けつけた。その時の屈辱から「オリンピックは優勝しないと何も価値がない。大会が終わって直ぐなのに3位でも忘れられてしまう。絶対に世界一になってやる」と松平さんは心に誓った。強くするためには選手を鍛えるだけじゃだめだ。マスコミにも注目を浴びて、週刊誌やテレビに扱われるようにならないと励みにもならないということで、松平さんが先頭に立って、取り上げてもらうように努力をした。それでも、メキシコまではそれほどでもなかったんだけど、その後ぐらいから徐々に人気が出始めた。

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    mc:
    「ミュンヘンへの道」という、男子バレーの選手を一人ずつ取り上げる番組がありましたが、そんな経緯があったんですね。

    横田:
    あれは、松平さんが全部プロデュースした。当時は、アマチュアスポーツに対して、そういうことをする発想がなかったので、誰も手を出さなかった。大手の広告会社も「そんなことをしたって商売にならない」という感覚の時代だった。今は、スポーツの選手に寄ってたかって、アホ扱いまでされるような時代。「メダリストしての自覚を持て」と言いたいぐらい、当時そんなことをしたら一発でクビだった。

    大崎:
    「ミュンヘンへの道」という番組は、日曜日の夜のゴールデンタイムに放映されていたんです。これも、松平さんのお力なんですね。12人それぞれのエピソードを紹介し、最後は松平さんご自身の回だった。横田監督もご自身の回は録画してお持ちだと娘さんから聞いています。

    横田:
    あったっけなぁ(笑)

    mc:
    逆に、それだけの人気になってしまうと、ファンに囲まれたりして大変だったんじゃないですか?

    横田:
    東京体育館の前の広場がファンでいっぱいになってバスが入れなくなってしまい、脇に止めて体育館に入場するなんてことがあったんだけど、ファンもよく分かっていて森田が行くとプレゼントを沢山用意していて、相撲取りのように触るわけ、次に大古が行くとちょっと道が開く、その後に俺が行くとサーッと3mぐらい道が開く。練習や試合での態度から怖いイメージがあったんだろうね

    mc:
    コート以外でも役割分担ができていたということですね。

    横田:
    森田は東京育ちで如才なく、誰とでもニコニコお話しできる。大古は周囲と合わせつつもエースということで、威厳がなくてはという気持ちもある。

    大崎:
    私にとっては、横田監督は笑顔で接してくれて、スポーツについての情熱も感じますから、皆が道をあけるということが信じられませんけど、ようするに凄すぎたんでしょうね。

    横田:
    ニコニコして試合をするわけでもないし、スパイクが決まったとしても「決めようと思って打っているんだから決まって当然」と思っているから、そんなに大喜びをするわけでもなかったからね。

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    mc:
    ヒーロー戦隊物のように、役割分担があって、ファンが近づきやすい人もいれば、そういう人だけではチームはまとまらない。本当に大事なことなんですね。

    さて、ご子息の一義さんが全日本クラスで頑張っていらっしゃいますが、親の立場から見てどんな風に感じていらっしゃるのですか?

     

     横田:
    全日本のユニフォームを着るのは今回初めてだし、まだ分からんねぇ

    学生選抜やジュニアでは選ばれたことはあるけれど、全日本というのはまた違うからね。スタメンでやれるようになれば「がんばったな」ということになるけれど、今はまだ「がんばれよ」というぐらいしかないね

    大崎:
    全日本の選抜方法は、今も昔も変わらないんですか?

    横田:
    昔は半年ぐらい前に12 名を選んで、骨折したりなどよほどのことがないかぎり通して行く、多少の怪我なら連れてゆくという方式だったんだが、松平さんが変わってからかな、怪我をしたらすぐ変えられるということになって、それだとみんなが怪我をしないようにと思い切った練習を出来ないから、18 名を選んでおいて大会の時に12 名を選ぶ方式になった。

    大崎:
    そうなんですか

    横田:
    その後、リベロができて、今は14 名がベンチに入れる。
    日本の場合、18 名の中から16 名ぐらいつれて歩いてその日に出る14 名を選ぶ。カズ(一義さん)も連れては行ってもらえるだろうけれど、ベンチに入れるかはその日の監督の考え次第だね。
    キツイ言い方かもしれないけれど、その程度では、まだ評価には値しないかな。

    大崎:
    ご自身が、金メダルまで獲った方だから、どうしてもハードルが高くなりますよね。一般の親御さんだとすると、「全日本に選ばれるのではないか」という時点で舞い上がるところですよ。

    横田:
    いや、舞い上がっているのが家にもいるよ。
    カミさんにとっては、息子だからいくつになっても可愛んだろうな(笑)

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    mc:
    ハードルが高い方が育ちますよね。松平さんが「絶対金を獲る」と言わずに「入賞で良い」とおっしゃっていたら、金は獲れていなかったのでしょうしね。

    横田:
    それでは金に、なっていないね。

    mc:
    評価基準が高く、「それが当たり前なんだ」というのが自分の中に刷り込まれていると、そこまで成長できますね。

    横田:
    先輩たちが東京オリンピックで銅をとってくれて、俺たちが全日本に選ばた時には分かりやすい目標があったわけ。
    大古にしても俺にしても、池さん以上のスパイカーになろう。森田にしてみれば、南さん以上のセンターになれば銅から銀に行ける。こういう目の前の目標があった。こういうのが天の時。東京オリンピックが終わった時に俺たち3 人が出てきた。当時高校生だった俺たちが、ミュンヘンでは25 歳になっていた。ちょうど、キャリアを積んでいた。いろいろな面で恵まれた。

    mc:
    それに加えて「金でないと、こんな扱いか」という悔しさもあったのでしょうね。銅メダルでチヤホヤされていたら、そこまで気持ちがあがってこなかったかもしれませんよね。

    横田:
    祝勝会に最初から呼ばれていて、「良かったね」なんて言われていたら、松平さんが自分から手を挙げてまで監督になっていたかどうかも分からないしね。

    mc:
    悔しさも大事な要素ということですね。

    大崎:
    ミュンヘンの後、男子のバレーは低迷が続き、ワールドカップでのメダルはあってもオリンピックでは一度もメダルをとっていませんよね。現在では、オリンピックに出るかでないかという状況ですが、監督、不躾な質問ですが日本はいつかはオリンピックで金を獲る時はくるのでしょうか。

    横田:
    ないだろうね。

    大崎:
    3 位まではあるでしょうか。

    横田:
    それも難しいね。

    大崎:
    監督が言うのは、本当に重いんです。
    それは、教育体制なんでしょうか、世界との差なんでしょうか。

    横田:
    トータルで

    mc:
    では、今の全日本に一番欠けているものは何なのでしょうか。

    横田:
    それは、根性さ

    大崎:
    ミュンヘンメンバーぐらいの根性がないと。
    根性があってもなかなか獲れないのが金メダルだから。

    mc:
    ところで、金メダルはどこかの博物館などに保管されているんですか?

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    横田:
    いいや、自宅にあるよ。
    メキシコの銀も。 観るかい?

    mc:
    是非、拝見させてください。

    横田:
    じゃぁ、そろそろ戻ろうか

    2012 年2 月12 日公開予定

    平成23年12月31日、日本バレーボール協会名誉顧問でミュンヘン五輪の男子バレーボール監督の
    松平康隆様がお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。


    横田 忠義(よこた ただよし)さんプロフィール

    香川県立多度津工業高等学校から中央大学。在学中の19歳で全日本入りした。
    メキシコ五輪で銀、ミュンヘン五輪では金メダルを獲得。強烈なクロス打ちの名手として名をはせ、

    大古誠司、森田淳悟とともにビッグスリーとして活躍した。
    現役引退後は、NECホームエレクトロニクスの監督を経て、1994年に全日本女子監督に就任。

    現在は、北海道・旭川に在住。帯広にて「横田杯」を主催するなど、バレーボールの後進育成のための活動をしている。

  • mc:
    神宮前WEB チャンネル。第二回のゲスト横田忠義さんのお話の後編をお送りいたします。
    再び、横田さんの旭川のご自宅に戻ってまいりました。

    中編の最後に「今の全日本は金は無理、男子に至っては銅も難しい」という、バレーボールファンにとってはとてもショックなお話。そこに一番欠けているものは「根性」ともおっしゃっていましたがもう少し詳しく教えていただけませんか。

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    横田:
    ハングリーさということになると、オリンピックからアマチュア憲章が外れて、お金をもらえる様になった。そうなったら、もうだめ。プロを宣言している者は報酬をもらっても良いけれど、そうじゃない連中はお金をもらっちゃダメだ。小銭をもらって、生活にゆとりがでたりすると、とてもじゃないけれど根性では勝てない。

    mc:
    お聞きしていて、サッカーの「なでしこジャパン」と重なりました。彼女たちは、大半の選手がアルバイトをしながら練習を続けるほど、男子と比べると余りにも恵まれていない状態で世界一を獲った。もちろん、競技人口が違いますから、単純に比較はできませんが、恵まれた環境の中でベスト4を目指して16ぐらいになっている男子とは、ハングリーさが違う気がしますね。

    大崎:
    ファンからすれば、その後も、田中幹康、花輪、植田、中垣内、大竹、セッターなら清水、真鍋のようなスター選手が思い浮かぶんですが、誰一人として、金は獲れていません。横田監督は、注目された後輩たちはどう見えましたか? また、オリンピックにもなかなか出られないような氷河期がありましたが、歯がゆくなかったですか?

    横田:
    歯がゆくはなかった。この程度やろうなと思った。
    その程度の成績に収まるような練習しかしとらんもん。だから、あれぐらいの成績で当たり前なんだよ。20 年ぐらい前からそうなんだけど、今やっている連中の練習は「オリンピックに行けたらいいなぁ」というぐらいの練習。「金メダルを獲ろう、世界一になろう」というためには、どんな練習をしたらそういう気持ちになれるかを知らんわけよ。指導者も知らんわけさ。
    女子の場合は、世界で3 番ぐらいになる練習は、分かるかもしれないけれど、一番になる練習は経験していない。だから、監督も金を獲る練習を発想ができない。

    mc:
    なぜ、松平さんは金を獲る練習を思いついたんでしょうか。

    横田:
    松平さんは、人を使うのがうまかった。
    メキシコオリンピックまでは、池田さんが現役の選手でやっていたんだけど、選手時代は松平さんと池田さんはものすごく仲が悪かったの。一回大喧嘩をしたのがきっかけとなり「俺が世界一のチームをつくるための片腕になれ。メキシコが終わったらお前をコーチにする。」と言う事になった。松平さんは、もともとレシーバー上がりだから、
    「スパイクに関しては一切言わん。池田さんに任せるから、横田、大古、森田を世界一にふさわしいスターメンバー、エースに育て上げてくれ」と言った。
    そして、トレーニングに関しては、齋藤というのを呼んで「世界一を獲るのにふさわしい体作りをしてくれ、トレーニングに関してはお前に任す」てな具合に任せていった。

    大崎:
    経営者として、松平さんの考え方というのはヒントになるし凄いです。人を動かす力というのは、歴代の監督の中で、松平さんを越える人はいないと思っています。

    横田:
    いない。そして、ありえない。

    大崎:
    松平さんの根性も凄いということですよ。

    mc:
    ただ、それだけのことをしようとすると、批判も大きなものがあったのでしょうね。

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    横田:
    強化委の内部から特にあった。だから、全日本の監督をやりながら、自ら手を挙げて、男子の強化委員長もやった。さらに、強化委の運営は、理事会で承認されないと進まないから、自ら理事にもなって周りを説得して協力を取り付けた。協力してくれない人は辞めさせる。ある面独裁者ですよ。

    大崎:
    「これで、金メダルを獲らなかったら腹を斬っても良い」ぐらいの人事ですね。また、それぐらい松平さんは自信があったと思うんですよ。
    まさに、男の中の男。それぐらいのことをしないと、「金」を目指す状況は作れない。自分から手を挙げる監督なんて、いませんでしたよね。

    横田:
    いない

    大崎:
    そして、その責任を果たしていますよね。ようするに「金を獲った」ということ。その後の松平さんは、今度は優しくバレーボールを見守っていらっしゃる。

    横田:
    離れてみていれば「優しい目で見ているな」と思うけれど、そばによってみると「何やっとるんだ、パカーン」だよ(笑)。

    mc:
    さて、話は変わりまして、横田さんの現在の活動について、お聞きします。
    現在は旭川にご自宅を構えていらっしゃるわけですが、それまでは、滋賀県の大津にいらっしゃったそうですね。

    横田:
    旭川というのは女房の実家で、義父も高齢になってきたということで2010年の4月に越してきました。

    mc:
    こちらに来たことが切っ掛けとなり、横田杯というバレーボールの大会が生まれたそうですね

    横田:
    たまたま、帯広のスポーツ施設である「交流の森」という所で、息子が所属するブレイザーズが合宿をしていたので、のぞきに行ったところ帯広で会社を経営している方と知り合い、彼も男子バレーボールのファンだということで「それだったら、北海道からもう一度男子バレーを盛り上げようか」ということになったんだわ。最終的には小中高の男女が参加する大会にしようということで、2010年から始めた。
    帯広には森田の教え子が高校の先生になっていたりするので、高校の男子チームを集めてもらって、2010年は2日間で6チームぐらいだったんだけど、2011年は3日間で19チームが集まった。

    大崎:
    トーナメントですか?

    横田:
    リーグ戦をやって、最後はトーナメントで優勝を争う方式だね。

    大崎:
    横田杯ということは、優勝カップがあるんですか?

    横田:
    あるよ。今は、帯広の今年の優勝チームがもっているわ。

    大崎:
    横田さんの名前がついている大会があるというのは、一ファンとしてとても嬉しいです。

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    mc:
    本当にご縁ですね。旭川に転居していなければ、帯広に出かけていなかったでしょうし、帯広で息子さんが合宿をしていなければ、このような出会いも無かったわけですからね。


    では、最後に壮大な質問をさせてください。
    今、日本自体が大きな曲がり角に来ていて、大切なものを思い出さなければならない時期になっていると思うんです。
    「三丁目の夕日」に象徴されるように、「あの頃の日本」を思い出そうという機運があると思うのです。横田さんからみて「今の日本に欠けているもの」や「こういう風にしたら、日本全体が元気を取り戻す」というものがありましたら教えていただけませんか?

    横田:
    田中角栄の時代に、大手商社の社長が国会の証人尋問に呼ばれて「この紙にサインをしなさい」という場面があったんだけど、手が震えて書けない場面が、テレビで放映された。それを見た大半の日本人は、それを笑い飛ばしたんだ。俺は、その辺りから日本がだめになったと思っている。日本は総中流「自分は上流でなくても中流で良いんだ」みたいな感覚になり、高度成長もあって割と裕福になっていった。

    あの放映を見た親は、「どんな大会社の社長でも、あういう所に呼ばれていったら、手が震えて字が書けなくなるようなみっともないことになるんだよ。あのようなことをやってはいけないんだよ」という教育をしなければならなかった。それを、ヘラヘラ笑って見過ごした。「恥を知れ」という言葉が、あの頃から使われなくなってきた。

    俺らが子供の頃なんか、「横田のせがれが悪さをしとるみたいな事を言われるから、恥ずかしいことはしてはいけない」と言われた。今から40 年前ぐらいから恥の文化を日本人が忘れはじめたんだ。

    大崎:
    確かに、使わなくなってきましたね。

    横田:
    昔は、近所に怖いおじさんがいて、悪さをしていたら、スコーンとやられた。銭湯に行ってチャポーンと飛び込んだら怒られた。そういうのが徐々になくなってきた。

    mc:
    そういうのを、スポーツを通じて底辺から教えようといういうことでしょうか。

    横田:
    上下関係とか大切なのに「拳骨の一つや二つ」というのを皆が否定するようになった。もちろん、ビンタとかというのはダメだけど。「失敗したらヘルメットの上からコーンとやられる」ことぐらいはある。そういうのを全体として残しておかなきゃあかん。教室でワーワー騒いでいる子がおったら、竹の鞭を持った先生がいて、ピシーッとやられてた。それぐらい当たり前だったけど。それが総中流になって、学校の先生と親の学歴も変わらなくなっちゃった。今は、東大ですら大安売りになっちゃった。いろんな所に東大がいるからね。

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    mc:
    学歴をとっぱらっても、尊敬すべき存在に学校の先生がなっていないということですね。
    先生だけでなく「大人を尊敬する」ということ自体が崩れてしまった。これを立て直すきっかけ、というのは何かありますか。

    横田:
    それをやろうと思ったら、日本を大統領制にするしかない。首長が圧倒的なパワーをもってやる。橋本前知事が教育委員会を変えようとしていたけれど、間接民主主義で選ばれた政治家では、しがらみがあってなかなかそこまでできない。何か変えようと思ったら、TOPは直接選挙で選ばないと変わらない。

    大崎:
    大統領選挙と同じということですね。

    mc:
    それでは、インタビューの締めくくりに、メダルを拝見できますでしょうか。

    大崎:
    こちらが、メキシコオリンピックの時の銀、そして、こちらがミュンヘンの時の金ですね。

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    mc:
    触らせていただいてもよろしいですか。

    横田:
    どうぞ。横田杯の時には参加者の首にかけてあげたりしているよ。

    mc:
    本当に、ずっしりと重いですね。


    日本が「ミュンヘンオリンピックのあの時」のように、元気を取り戻すことを期待しつつ、今回の社長対談を締めせていただきます。
     

    横田さん、本当にありがとうございました。

    平成23年12月31日、日本バレーボール協会名誉顧問でミュンヘン五輪の男子バレーボール監督の
    松平康隆様がお亡くなりになりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。


    横田 忠義(よこた ただよし)さんプロフィール

    香川県立多度津工業高等学校から中央大学。在学中の19歳で全日本入りした。
    メキシコ五輪で銀、ミュンヘン五輪では金メダルを獲得。強烈なクロス打ちの名手として名をはせ、

    大古誠司、森田淳悟とともにビッグスリーとして活躍した。
    現役引退後は、NECホームエレクトロニクスの監督を経て、1994年に全日本女子監督に就任。

    現在は、北海道・旭川に在住。帯広にて「横田杯」を主催するなど、バレーボールの後進育成のための活動をしている。