大崎:
それでは、攻守交代ということで私の方から質問をさせてください。
お父様は、舞台やテレビの司会、「スターどっきり㊙報告」「ああ日本の社長」などのレポーター、クイズ番組のパネラー、大河ドラマや遠山の金さんでの俳優など、本当に色々な事をなさいましたよね。マルチタレントの走りですよね。
山口:
やっていないのは歌ぐらいじゃないですかね。ただ、本人も歌いたいとは思わなかった。というか苦手意識があったんですよ。カラオケとかはやらない人でしたから。今の人は、子供の頃から歌える環境が整っていますから上手ですよね。父が若かった頃は、カラオケと言えばエイトトラックの大型のカセットの時代。家族でカラオケなんて考えられませんでした。それに父の場合、どなたかがカラオケを歌う場合には司会をしてたんじゃないですかね(笑)
大崎:
著書を拝見しましたが、宮尾先生の人生は本当にドラマチックだったんですね。旧満州でお生まれになって、鹿児島に引き上げられ、そちらで事業をなさっていた。
山口:
鹿児島県の川内市(現・薩摩川内市)で紳士服の店をしていました。当時では珍しい月賦販売をしたりしていたのですが倒産してしまい、30歳の時、それで東京に出てきたんです。最初は池袋の西武百貨店に就職が決まっていたんですよ。もし、そのまま百貨店に就職していたら大崎社長のいいライバルだったかもしれませんね。
大崎:
百貨店ですか。その後に、漫談家の宮尾たか志さんに師事されたそうですが、何故、話芸の道をこころざされたのですか。
山口:
鹿児島で紳士服店を数店舗経営していて、いろいろ経営者なりの苦労があったみたいで、師匠の新聞記事を見て、「この仕事は、在庫を持たなくていい、店舗を持たなくていい、手形も回ってこない、背広一つあれば商売になる!」というので、その道を目指したみたいです。弟子になりたいと言っても、新弟子になるのって大体年齢は10代の人ばかり。父はすでに30歳でしたからね。当然、宮尾たか志師匠に初めてお会いした時には、「田舎に帰れ」と言われたそうですよ。ただ、その当時、宮尾たか志一門には、運転免許を持っている弟子がいなかったそうなんです。父は鹿児島時代に車も持っていたぐらいでしたから、運転はお手の物。運転免許をもっていたことが幸いして、最初は師匠の車の運転手兼内弟子になったんです。
大崎:
最初は、運転手もされていたんですか?
山口:
本当に、人生は何が幸いするかわからないですね。それに、自分で商売をやっていたからこそ、経営者の気持ちがよく分かるらしいです。だから「宮尾すすむの日本の社長」がモーニングショーの人気のコーナーになったんでしょうね。
ところで、大崎社長は学生時代に、この番組の収録の様子をご覧になったということですが、いかがでしたか?
大崎:
こんなにたくさんの素材を撮るのかと思いましたね。納得がいかないと「社長、もう一回今のシーン宜しいですか?」と何度も撮り直しをしていました。そこまでこだわって作った番組だからこそ、人気があったんでしょう。かなりの視聴率だったのではないですか?
山口:
朝のワイドショーの1コーナーだったのにもかかわらず、あのコーナーだけ15%ぐらいあったみたいですね。反響もかなりあったみたいですよ。この番組に出演されて、業績が伸びた会社さんもたくさんありましたし、出演された社長さんはこの番組に出られるようになることを目標にしていたなんてお話を頂いたこともありました。
大崎:
私の父が出たのは、番組初期の方だったのですけれど、仕事がのってきていた時なので忙しいことを理由に何度か断っていたみたいだったですよ。ファッション業界ゆえに芸能界にパイプがありまし、さらにアパートの大家もしていてそこに大物俳優が住んでいたこともあって交友関係もあったので、最後は断りきれずに受けたみたいです。
その後もタイムショックに出たりなど、画面に登場すること自体が嫌いなわけではなかったので、きっとそういうお話が持ち込まれたのでしょうね。
宮尾すすむさんがいらして『社長、社長』と言われると気分が良くなって、ついつい自分のことを話したくなる。他の方では真似ができませんよね。
ところで、お家ではどんな方だったのですか?
山口:
うちに帰れば、普通の父親でしたよ。テレビとはイメージが違うかもしれませんが、亭主関白で真面目。でも、母の事と家族が大好きな父親でしたよ。とても厳しいけど、明るく優しい父でした。
大崎:
そこは私の父と似ていますね。
それにしても宮尾すすむさんのお心遣いは半端じゃなかった。撮影の後、別の仕事をしてからまた打ち上げのお寿司屋さんに戻ってきてくれたらしいんですよ。『宮尾すすむ、只今戻りました』って。
私の結婚式の時の宮尾さんからの祝電。
『パチンコは一人でやるもの、麻雀は四人でやるもの、子供は二人で作るもの、明るくかわいい赤ちゃんを作ってください』って文面でした。
宮尾さんは、当日、仙台でのお仕事が入っているということでご出席頂けなかったですが、僕の結婚式の事を気にかけてくださったんでしょうね。
山口:
それだけ、親交が深かったということですね。
大崎:
本当ですか! それは嬉しいなぁ
今回のこの対談も104で連絡先の電話番号を調べ始めたところから、何だか導かれるように話が進みましたし、父や母に、息子さんにお会いすることを伝えると懐かしそうな顔で喜んでくれました。本当に深いご縁を感じますね。
山口さんは、お父様と同じ業界にいきなり入られたんですよね。大変ではなかったですか?
山口:
一般の企業の二代目とは感覚が違うかもしれませんが、後悔はないですね。父と同じ世界にいることで色々と学びました。
親子で同じ仕事をできるっていうのはすごく幸せでした。目の前に最大の味方であり、最高のお手本がいるんですもんね。今になってみると僕が父にできた唯一の親孝行が、父と同じ仕事をして、いろいろ教えてもらって過ごした時間だったかもしれませんね。
大崎:
今回の〆はどうしてもお寿司屋さんでやりたかったんですよ。できれば、父と宮尾すすむさんが行ったお店に行きたかったんですが残念ながらそこは無くなってしまったので、私が多くの方と出会ったこのお店を選びました。対談はこれぐらいにして、後はオフレコでゆっくりと飲みたいのですが、結びに何か伝えたいことはありますか?
山口:
先ほど、大崎社長もおっしゃっていましたが縁とともに、タイミングって大事だなって思うんです。それとちょっとした勇気。
子供の頃、家族でイルカのショーを観に行った時に、トレーナーが『イルカに触ってみたい人は手を挙げて!』みたいなことを言ったんですね。でも、僕は恥ずかしがり屋だから手を挙げられない。その時、父が僕の背中を蹴飛ばしましてね。その勢いで手を挙げました。結果的に父に背中を押されて真っ先に手をあげたら選ばれて触ることができました。その後に、たくさんの子供が『私も私も』ということになったのですが断られたんです。
『何事もタイミングが大事』というのを感じましたし、『やりたい』っていう事が大事なんだと教わりました。
『場は、与えられるものではなく掴むもの』
今回お声掛けを頂き、こうして対談をさせていただく中で、父・宮尾すすむから学んだことを改めて思い出しました。本当にありがとうございました。
大崎:
こちらこそ、お忙しい中お時間を作って頂きありがとうございました。
勇気を振り絞って104して良かったです(笑)
では、対談はここまで! あとは、ゆっくり飲みましょう!!
山口:
これからは、インターネットも使ってくださいね(苦笑)
山口雅史(やまぐちまさし)氏プロフィール
1976 年東京都生まれ。宮尾すすむ・山口明美夫妻の長男として生まれる。日本大学芸術学部在学中に、3本の自主映画を制作した後、『WCW マンデーナイトロ』でデビュー。プロレス、ゴルフの実況をはじめテレビ番組の司会、レポーター、ドラマなど幅広い分野で活躍。現在はテレビ朝日「ワイド!スクランブル」レポーター、『新日本プロレス中継』実況『東建ホームメイトカップ』実況『週刊ゴング』にてコラムを連載など。
過去の主な出演作品には、NHK「赤ちゃんを探せ!」、日本テレビ「踊る!さんま御殿」、TBS「炎の体育会TV」、テレビ朝日「周作がゆく!」水野役、テレビ東京「テレビチャンピオン2」など多数出演。
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